北海道のソウルフードメイカーベル食品

ジンギスカンの知識

ジンギスカンの歴史からベル食品とジンギスカンまで

羊毛の生産のために輸入

明治時代、欧米文化の流入によって毛織物の需要が増大。
政府は羊毛の国内生産を目的に「緬羊」の飼育に力を入れ始める。
大正時代に入ると、第一次世界大戦の勃発で羊毛の輸入が止まり、1918年(大正7)には100万頭増殖計画を実施、1935年(昭和10)には中華事変、第二次世界大戦などにより軍需羊毛の自給のために緬羊飼育が国策として奨励された。

羊毛

ちなみに、日本の歴史に羊が登場するのは、日本書紀の中で「559年(推古7)の秋9月の癸亥の朔に、百済が駱駝一匹・驢(ロバ)一匹・羊二頭、白い雉一羽をたてまつった。」という記述が残っている。
食用を始めたのは大正時代にさかのぼる。
当時、中国大陸に進出していた日本人が蒙古(モンゴル)民族の調理方法を参考にして、日本人の口に合う調理法として考え出されたのが、「ジンギスカン」だと言われている。
北海道では毛肉兼用のコリデール種を飼育していたことから、羊肉の普及に向けた取り組みを月寒種羊場と滝川種羊場で行ったことが記録に残っているが、羊肉特有の臭みなどが原因からか、羊食は進まなかった。

余談だが、緬羊の飼育は第二次世界大戦後、衣料不足を補うため盛んに行われるようになり、1957年(昭和32)94万頭まで増え、ピークをむかえる。

コリデール種

その後、輸入羊毛の増加による羊毛価格の下落やハム・ソーセージなどの加工原料肉として需要が高まり、1965年(昭和40)には20万頭、1976年(昭和51)には1万頭まで減少する。
現在では、緬羊としてではなく、ラム肉生産のために飼育されている。

北海道とジンギスカン

北海道では前述のとおり昭和初期から羊の飼育が盛んに行われていた。
滝川種羊場長を務めた山田喜平氏とマサ夫人がジンギスカンなど羊肉料理の普及に尽力した人物として知られており、昭和10年代から農業関係雑誌などで羊肉の調理法などを紹介している。
この頃の食べ方は、ゴマ油を塗った金網を七輪にかけて、炭火の中には松の枝を混ぜ、燻すことで臭みを消していた。
山田夫妻は、焼き物、揚げ物、煮物など約30種類の調理法を詳細に説明し、普及を図っている。

ジンギスカン料理の実習風景(滝川種羊場)1937年(昭和12)頃

1936年(昭和11)1月、狸小路6丁目の飲食店「横綱」で行われたジンギスカンの試食会でも山田夫妻が肉と鍋を持参し、たれの作り方や調理法を伝授した。
この時の試食会を主催したのは北海道庁で、評判については羊肉独特の臭みやたれに使われたニンニクの臭いが強すぎたこともあり、不評に終わっている。
横綱ではその後も、鍋やたれに改良を加えた「ジンギスカン鍋」をメニューとして出していたが、多くの人に受け入れられることはなかった。
種羊場では緬羊の飼育はもちろん、近隣の農民に羊の飼育方法を教えており、農家では豚などとともに、収入の手段として数頭の羊を飼う習慣が少しずつ広まっていく。

月寒種畜牧場

終戦後にジンギスカンを違和感なく受け入れたのには、こうした農家では、羊肉を手に入れやすく、食べ慣れていたため、下地はできていたと考えられる。

北海道の郷土料理へ

ベル食品の成吉思汗醤油樽前にて(昭和36年頃)

ジンギスカンが北海道の郷土料理として広がりを見せるのは、昭和20年代後半になる。
1951年(昭和26)頃、滝川の飲食店が種羊場のジンギスカンに目をつける。
後に羊肉をたれに漬け込む「松尾ジンギスカン」のスタイルが、この頃に登場する。
札幌では月寒に「成吉思汗倶楽部」が1953年(昭和28)に発足するなど、ジンギスカンを食べさせる飲食店が少しずつ増え始める。
そして1956年(昭和31)にベル食品が「成吉思汗たれ」を発売する。ジンギスカンの知名度は広がっていたものの、家庭料理としては認知されていなかったが「成吉思汗たれ」の登場で、より身近な食べ物へと発展することとなる。
北海道以外にも岩手県遠野市など、ジンギスカンを名物料理として出すところが数カ所ある。
北海道と遠野市の共通点は、種羊場があり、羊肉を食べる機会が多いことがあげられる。
実際、昭和30年代の北海道は、高度経済成長期へと進み始める時代だが、肉類などの食品は決して豊富ではなく、他の肉類に比べ安く、手軽に入手できる羊肉を使ったジンギスカンが受け入れられる土壌だった。

また、この頃は飼育1年以上の「マトン」が多く流通されており、生後1年未満の「ラム」に比べ、羊肉独特の臭みが強かった。
そのため食べ慣れない人には、臭みを敬遠し「ジンギスカンは苦手」という人も多い。
鮮度が良ければこの臭みも少ないが、羊肉の産地から遠い東京などで「ジンギスカン」が定着しなかったのもここに原因があった。

ジンギスカンが家庭に浸透

ベル食品が「成吉思汗たれ」を開発する経緯は、その少し前に「つゆの華」というそばつゆを発売していたことに由来する。
市販のめんつゆがない時代にいち早く開発、販売した。ジンギスカンのたれも同じように市販されているものがなく、羊肉を扱う精肉店が手作りで販売したり、もしくは一部の家庭では手作りしていた。
そんな中、発売された「成吉思汗たれ」は当初、順風満帆の売り上げではなかった。今では見慣れた中央が盛り上がったジンギスカン鍋もこの頃は珍しく、どの家庭でも常備するようになるにはもう少し時間がかかる。
もともと北海道の農家では、羊毛を採るために数頭の羊を飼育するケースも多く、羊肉を食べる習慣は農村が中心だった。
前述の通り戦後の食糧難の時代には、羊肉は貴重なタンパク源として重宝されるが、「羊肉」イコール「ジンギスカン」となるのは昭和30年代中頃以降になる。

ジンギスカンの由来

名付け親は札幌農学校出身(現北海道大学)の駒井徳三氏という説が有力視されている。
駒井氏は満州鉄道の調査部に所属し、中国全土を踏査した経験もある。
野趣あふれる羊肉料理に蒙古の英雄「チンギスハーン」を重ねて名付けたとされている。

成吉思汗たれ
焼肉たれ
成吉思汗たれは昭和31年発売

「成吉思汗たれ」

昭和40年頃の製造施設

発売当初の売れ行きの伸び悩みは、家庭でジンギスカンを食べる習慣がなかったことが大きい。
1958年(昭和33)、ベル食品の社長に就任した山本豊蔵氏は、「成吉思汗たれ」1箱に特製鍋を一つ付けて売り込むことを始める。
このアイデアが好評で、精肉店では羊肉を買ってくれた客に貸し出すのだが、回収が間に合わないほど好評で、その結果「成吉思汗たれ」は少しずつ売り上げを伸ばす。
このようなアイデアはもちろんだが、地道な営業努力もあった。
栄養士を講師に、問屋を招いた講習会を道内各地で開き、ジンギスカンという料理を広めることに時間と手間、お金をかけた。
こうした努力のおかげで、大ヒット商品へと成長する。
ベル食品の工場ではほとんどが手作業でニンニクやリンゴ、タマネギを摺り下ろし、「ニンニクを摺った日は臭いが身体に染み着いてバスに乗れなかった」。
「タマネギの皮むきも大変な作業で、涙が止まらなかった」などの話が伝えられているほど多忙を極め、製造したものから順次、出荷するほどだった。
当時、北海道観光ブームがおこり、ビールとジンギスカン、大通公園とトウキビワゴンなど北海道のイメージが定着するのもこの頃で、こうしたブームがジンギスカンの浸透に拍車をかけた。

花見でジンギスカン

昭和30年代後半に入ると、ジンギスカンは道産子にとって欠かせない食文化へと広がる。
中でも花見やキャンプなどの屋外行事では、ジンギスカンの煙と臭いが必ずといっていいほど立ちこめるようになる。
さらに、小・中学校で行われる炊事遠足でもカレーライス、豚汁と並んで定番料理として作られるようになり、ジンギスカン鍋は「一家に一つ」という時代になる。

円山公園のお花見

1966年(昭和41)にはサッポロビールが赤れんが造りの製造工場を改築し、サッポロビール園を開園する。
開業当初からジンギスカンとビールを出すスタイルは変わらず、北海道観光の定番コースとして確立する。

ジンギスカンが北海道の郷土料理として定着するのは、前述のとおり昭和20年代後半から30年代だと推測できる。
当時、簡単に安く手に入った「羊肉」や観光ブームなどの影響はもちろんあるが、ベル食品が「成吉思汗たれ」を発売し、それを売るためにあらゆる努力を重ねたことが大きく影響したことは間違いない。

ジンギスカンは花見に不可欠の存在

その証拠に、昭和40年代に入ると本州のメーカーが「ジンギスカンのたれ」を発売するが、その時にはすでに、道産子にとってジンギスカンの「たれ」は、三角ビンにオレンジ色のラベルが目印の「ベル成吉思汗たれ」の味に慣れ親しんでいたため、早々に撤退することになる。

ジンギスカンの「鍋」

家庭に普及していったジンギスカン鍋

もともと網や鉄板で焼いていたものが、中央の盛り上がった鋳物製の専用鍋に変わったのは第二次大戦後からだといわれている。
厚い鋳物製の鍋は、熱の保温力があり、たくさんの肉を置いても一気に冷めることはなく、屋外料理として大勢で食べることが多いジンギスカンに適している。
また、盛り上がった中央部分に肉を置くことで、余分な脂が流れるため香ばしく焼くことができる利点もある。
さらに野菜を端で焼くことによって、肉に野菜から出る水分が届かないなど、よく考えられた鍋だが、考案者など諸説あり、特定することは難しい。

たれ付け派?味付け派?

成吉思汗たれポスター

焼いてからたれに付けて食べるタイプとたれに肉を漬け込むタイプに分かれているのは周知の事実。
各家庭、育った地域などによって異なるため、はっきりとした地域区分は難しいものの、札幌や函館、釧路などでは前者が好まれ、旭川や滝川、帯広などは後者が多い。
サッポロビール園をはじめとした「ビール園」では、焼いてからたれに付けて食べる方が多い反面、「松尾ジンギスカン」をはじめとした有名店では肉をたれに漬け込む店が多い。
しかし、昨今の「生ラム」ブームの影響で、焼いてからたれに付けて食べるタイプのジンギスカン専門店が増えている。

ヘルシーなジンギスカンに注目

羊肉を使った料理を紹介

2004年(平成16)頃からジンギスカンブームが到来する。
これは米国でBSEが発生したことで、米国産牛肉の輸入禁止に端を発する。
家庭ではもちろん、焼き肉や牛丼などの外食産業にも大きな影響を及ぼした。
そんな中、チルドなど輸送技術の発達で新鮮な羊肉、とくに「生ラム」などくせの少ないものが手に入りやすくなっていた。
さらに、羊肉は低コレステロールで、コレステロール値を下げる不飽和脂肪酸も多く含まれている。
ほかにもアミノ酸の一種のカルニチンやビタミンB群、鉄分などの豊富な栄養成分が注目され、全国でジンギスカンブームが巻き起こる。
2005年(平成17)末には東京都内だけでも200店以上のジンギスカン専門店が登場し全盛を極めたが1年ほどで収束する。
しかし、ブーム後にジンギスカン店の数は半分以下になったものの、ブーム前に比べても増えている。
何よりもジンギスカン独特の「臭み」に対して苦手意識を持つ人が少なくなり、都内のスーパーマーケットにも「ラム」が置かれるようになった。
前述のとおり、輸送技術の発達により新鮮な羊肉が流通するようになり、日本全国で食べられるようになったが、逆に住宅環境の変化もあって、北海道の家庭ではジンギスカンを食べることが少なくなった。
相変わらず屋外での人気はあるものの、焼き肉に押されているのが現状で「一家に一つ」あったジンギスカン鍋も、今では少なくなっている。
しかし、道産子にとってジンギスカンは流行に左右されない、郷土料理であることには間違いない。